こんにちは、アラフィフ英語学習人の、むっちです。
フラットでの生活が始まり、夢だった海外生活が本格的に始まりました。
英語の勉強も頑張ろうと張り切っていました。
オーストラリアの澄み切った青い空に、後押しされている様な気持ちでした。
思いもしない実家の状況
しかし、この頃、母の病気が判明しました。
実家から送って欲しい物があり、何度も電話していたのですが、なかなか誰も出てくれません。
途方に暮れながらも、何回目かの電話に父が出ました。
そこで、母が入院し、手術を受けていた事を知ります。
呆然とするわたしに、父が言いました。
「もう落ち着いているから、大丈夫、帰ってこなくても良い。せっかく自分の夢を叶えているんだから。家族みんな、そう思っている。今帰らせたら、悔やんでも悔やみきれない。」
わたしは、何をしているんだろう。
わたしは悪い事をしているのか。
どうしてこんな事が起きるんだろう。
色々な思いが頭を駆け巡りました。
Swan川から市街地を見ていると、途轍もない悲しみと罪悪感がこみ上げました。
その一方で、ここに居る幸せとありがたさもこみ上げてきました。
不思議な感覚でした。
数日間、考えに考え、ここに留まることにしました。
帰ったらきっと、色んなことがあるだろう。
それに向かう覚悟を決めました。
ワーホリ初の小旅行
数日後、特に親しくしていた友人たちから連絡が入りました。
この友人たち、わたしが何処に住むのか心配してくれていました。
落ち着いたところを、見せて安心してもらわねば。
アンドレアも紹介したいし。
みんなで、料理して昼ご飯を食べることになりました。
アンドレアにも紹介出来ました。
彼女たちに、「いつでも遊びに来てね。」と言葉を掛けてくれたので、喜んでもらえました。
その後、この2人と小旅行に出ました。
しかし、どこに行ったのかこれは、全く記憶が無いのであります。
多分、ロットネス島だったかと思います。
写真を撮るだけ撮って、メモさえもしていないという、いい加減さ。
まあ、楽しかった様だから(写真を見て)、良いか。
注目は、クオッカです。自転車を借りて、走り回ったのですが、見てくださ~い!
この人懐っこさ。こちらが戸惑うくらいです。
警戒心は限りなくゼロ。
間違っても連れ帰ってはいけません。
そして、食べ物もあげません。
この国は、独特な動物たちが多く生息しています。
そして、身近に見ることが出来ます。
郊外にあるお宅にお邪魔した時など、庭先にカンガルーの親子が来ていました。
そこのご家族は、そのカンガルーに食パンを🍞をあげていました。
庭にカンガルーですよ。
ワラビーじゃなくて、カンガルー。
しかも立ち上がっているから、デカさが際立つ。
オーストラリアは、状況に応じて法律・法令を臨機応変に変えている印象があります。
ですから、今現在は、この様に庭先に来た動物に食べ物をあげるのは、違法かもしれません。
もしかして、実際は、当時も違法だったかも。
また、ダーウィンの街を、女子3人で歩いていた時には、脇道から3~40センチのトカゲが出てきました。
一同、悲鳴の嵐。
シドニーのユースホステルで、ふと窓を見ると、外側に手のひら位の黒い蜘蛛が張り付いていました。
もちろん、近くにいた女の子が、即行で悲鳴をあげていました。
また、ある日の事、フラットのキッチンに20センチ位のミミズがにょろにょろしていました。
これは、アンドレアが空のヨーグルトの入れ物を使って、外に出してくれました。
少しゲテモノが過ぎました。ごめんなさい。
もちろん、素敵な出会いもありましたよ。
普通にそこら辺を飛んでいる鳥が、赤や緑の鮮やかな色をしていて、楽園気分を味わえました。
このクオッカたちとの出会いもそうです。あまりに人懐こくて、心配になるほどでした。
スワン川クルーズ
この小旅行の次に、スワン川のクルーズ船に乗りました。
この川は河口付近が広くて、街の景観に一層の華やぎを添えていました。
以前にも触れましたが、この川沿いには大邸宅が立ち並んでいて、別世界でした。
どうやら、川沿いや海が良く見える場所の地価は高い様で、ほんの数メートルの差で、不動産価値が全く違うみたいでした。
大豪邸を眺めながら、ワインのテイスティングをしました。
元々お酒を飲まないわたしは、直ぐに良い気分になってしまいましたけど。
オーストラリアは、数多くのワイナリーがあり、ホワイトワインが多く飲まれていました。
ワインは瓶もありましたが、店で売られているのは、大容量の紙パックでした。
コックがついていて、それをひねってドバドバグラスに注ぐ感じです。
4ℓ位入っていたかな。
アルバイト生活へ
初めての小旅行に出て、クルーズもして、そろそろ働くことにしました。
運良く、日本食レストランの一つが求人を出していたので、面接に出向きました。
年も明けてからだいぶ時間が過ぎた、2月でした。
ワーホリの日本人は、地元の日本食レストランでアルバイトをするパターンが多かったです。
もちろん、英語が堪能であれば、職種は広がります。
当時は、ワーホリビザでは最長3か月までしか、同じ職場で雇用されませんでした。
また、年齢も18歳から25歳(ビザ申請時)まででしたが、現在は30歳までの様ですね。
その他の条件も、色々変わっていて、正直羨ましいです。
無事採用となり、夕方6時から10時までの間、ウエートレスとして働く事になりました。
パースの繁華街の、賑やかな場所にそのレストランはありました。
日本人のご夫婦が切り盛りしていて、美味しいと評判の店でした。
キッチンハンドの男の子たち、ウエートレスの女の子たち、皆ワーホリでこの国に来ていました。
みんなに教えてもらいながら、何とか仕事に慣れて行きました。
初めて英語でオーダーを取った時は、緊張しました。
オーダーを取ったりの接客に慣れてきたある日、地元のお客さん数名が入ってきました。
わたしのお勧めの料理を全部出すように言われました。
ウナギは食べられるのか、食べられない食材はあるのか、等の確認をして厨房にオーダーを入れました。
いつもより時間が掛かったので、先輩ウエートレスの子に心配されました。
無事に、全ての料理を喜んで食べてもらえました。
こちらの店では、夕方の開店前に掃除をした後、”まかない”が出ました。
照り焼き、刺身、丼物や、新メニューを出してきては、わたし達に意見を聞いてこられました。
もちろん、全て美味しかったです。
わたしとしては、仕事をいただき、まかないをいただき、仕事以上の経験と出会いをいただき、感謝でいっぱいです。
ここには、アンドレアが譲ってくれた自転車で通いました。
Made in Japan の文字がありましたが、ママチャリではありません(当たり前)。
修理が必要で、近くの自転車屋さんに持っていきました。
何か所修理したかは忘れたのですが、セット売りであろう部品の袋を開けて、対応してくれました。
修理代は100A$位かかりました。
アンドレアに見せて、意気揚々と近所を走り回っていました。
しかし、そのすぐ後に、何処かで新しくしたチェーンロックを、落としてしまいました。
心当たりを探しましたが、見つけられず。
結局、買い直す羽目になりました。
それを見て、アンドレアは笑いすぎて、泣いていました。
この相棒と、夕方の出勤時はスワン川の向こう岸に見えるビル群を見ながら、帰りは夜景を眺めながら走りました。
こちらのレストランで、出来れば長く働きたかったのですが、お店を改造することになりました。数か月の期間に渡るため、残念ながら、こちらでのアルバイトは2か月弱で終わりました。
今回はここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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