オーストラリア滞在中、最大のピンチに遭ってしまったお話

eyecatch わたしのAustralia


こんにちは、アラフィフ英語学習人の、むっちです。

今回は、久々にオーストラリア滞在時のエピソードを書きます。

前回、ワーホリ2回目の小旅行(移動距離は決して小旅行の類ではない)について書きました。

楽しい旅行の後は、新しいアルバイト先を探す旅?の始まりです。
ここからのワーホリ生活は、怒涛の勢いで展開していきました。
人生は旅、旅は人生、という事で、残りの5ヶ月をなぞって行きます。

2つ目のアルバイト先は苦い体験多し

新しい出会い

1つ目のアルバイト先の日本食レストラン、まかないが美味しくて、オーナーも優しい。
スタッフもみんな、良い人達、お客さん(地元のオーストラリア人)との交流も楽しい。
出来れば、もう少し働きたかった。
しかし、改装するという事で、次のアルバイト先を探すことに。

1990年代のワーホリビザでは、最長3か月しか同じ職場で働けませんでした。
ですから、選ばなければ、(ワーホリの日本人が出入りする訳なので)職はありました。
主に、日本食レストランです。

そもそも、わたしの様な英語スキルでは、地元の人と肩を並べての求職活動は無理です。

当時のオーストラリアの失業率は10%を超えていました。
余程のスキルが無いと、外国人にその席は無いのでした。

と、言う訳で、2つ目のアルバイトも日本食レストランに決めました。
迷ったり、選り好みしているうちに、時間は過ぎるしお金は稼げませんしね。

2つ目のアルバイト先は、当然ですが1つ目のレストランとは色々な点で違いました。
先ず、ウエートレスだけでは無く、厨房で皿洗いもしました。
海外の洗剤は、実に強力です。
日本の食器洗剤と違い、お肌には優しくないので、速攻で手が荒れまくりました。
まるで紙やすりの様な状態になりました。

「ゆっくりやろ~ぜ~。」と、同じアルバイトの男性に声を掛けて貰いながら、洗剤に慣れて行きました。
「洗剤」に慣れたのではなく、「荒れ」に慣れたが正しい。

その後、何かとオーナーに怒られながら、頑張っていました。
一体全体、何を怒られたのか。
ある日、領収書を書くように言われ、勢いよく「$24」て書いたんですよね。
「Twenty-four dollars だろが~!」と。
日本の「金 壱萬円」みたいな感じですね。
数字を書き足されたら、色々拙いですからね。
ごめんなさい。

この、2つ目のアルバイト先のレストランには、フラットの同居人、アンドレアとお休みの日に一緒に食事に行きました。

アンドレアは、わたしと出会う前は日本人との接点が、あまり無かったと思います。
しかし、わたしがフラットに来てから、彼女なりに日本を知ろうとしてくれていました。
日本についての書籍が、本棚に並んでいたり、日本食に興味を持ってくれました。
わたしが作った、ちらし寿司をとても喜んで食べてくれました。
本当に嬉しい事です。

前に触れましたが、アンドレアは180㎝超えの長身美女なので、オーナーも「おっ?」って感じでしたね。
わたしも一応、166㎝ありますが、色んな意味で小物なり。

虎の威を借りる狐の、むっち。

確か、てんぷら定食を食べたような。アンドレアは大満足でした。

ここのレストランは、立地の関係で、単身赴任の日本法人の商社マンの方々が多く来ていました。
聞けばご家族は、子供さん達の進学事情もあり、先に帰国されていました。
日本のお父さんは頑張っていました。
以前の赴任先(中東とか)のお話を聞けたりと、色々勉強になりました。

日本はやっぱり、平和で良い国です。
問題はありますが。
中東は気候が厳しく、自動車が砂嵐で駄目になるとか、
日本に帰国する際は、部屋のエアコンをつけたままで帰る(家具が傷むそう)とか。
中東は色々厳しい。
気候が気質に与える影響は、大きいでしょうね。

まさかのアクシデント

日本ではゴールデンウイーク真っ最中の頃、語学学校で知り合った、友人達と地元の動物園に行きました。
写真をいつもの様に紹介したいところですが、この頃の写真だけ、大半が傷んでしまってお見せ出来る状態ではなくなっていました。
悲しいなぁ・・・。

同居人のアンドレアは、お友達とイギリスに何週間か旅行に行くこととなり、お留守番です。
彼女は毎日ウキウキしておられました。

明日はアンドレアがイギリスに出発、と言う日の午後。
わたしは、自転車に乗って、少し遠いスーパーマーケットへ、食料買い出しに出掛けました。
色々買って、家に戻ろうと、交差点で信号を待ち、青に変わって直進しました。

右側から、ごつい白のセダンが現れたかと思った瞬間、自転車ごと数メートル飛びました。
もう、身体が重い、痛い、ショックで動けない。
幸い、頭は打っていませんでしたが、身体が受けた衝撃は大きかったのでした。

状況が良く分からず、横たわっていました。
道の反対側の銀行から、女性が出て来て歩道にあるベンチに座らせてくれました。
通りすがりの男性が、「大丈夫か?」と声を掛けてくれました。
「大丈夫。」と返すのが精一杯でした。
「大丈夫には見えないよ。」と言われました。
いや、もう、正直話すのがやっと。

その後は、良く覚えていないのですが。
助けてくれた女性行員に、銀行の上の階にある、クリニックに連れていかれました。
クリニックには女医さんがいて、直ぐに診てもらえました。
警察に行く必要があったのですが、この女性行員が、
「もし、良かったら、警察には一緒に行こうか?もし、良かったら、だけどね。」
と言ってくださいました。
女医さんも、「それが良いよ。」とおっしゃるので、ご厚意に甘えることにしました。

警察では、いわゆる状況確認をされました。
信号が青になったから、直進したら右から車が来て、ドン。
身体は飛び、自転車のハンドルは曲がった。みたいな。
もう、これが精一杯の状態でした。

さて、わたしを遠くに飛ばした車のドライバーさんは、80を優に超えたお婆さんでした。
今まで運転してきたけれど、事故は初めてだったそうです。
わたしも、ダメージ受けましたが、お婆さんも別の意味でダメージを受けていました。
いつか家に遊びに来てね、みたいな事を言ってくださいました。
その話を数人にしましたが、全員に行かなくて良いよ、と言われました。

身体のダメージは、幸いにも強めの打撲と肘に深い傷を負った位でした。
とは言え、広範囲に打撲の跡が残りました。
数日はひどい痛みに襲われました。
アルバイトは数日休む事となりました。

アンドレアには、せっかくの旅行前なので、事故の事は話しませんでした。
後に、かなり怒られましたけど。
「なんで、あんな遠いところまで買い物に行くのよ!」って。
それは、そのスーパーマーケットが安いから。
これぞ、安物買いの銭失い。



オーストラリア人の親切がしみまくる

オーストラリアでは(当時)、交通事故に遭ったら、保険会社かどこかに電話して、保険番号を貰います。
その番号を病院に伝え、治療を受けるのでした。
その、保険番号を貰う電話で、コントの様なやり取りをしてしまいました。
日本だと、名前の漢字を確認する時、「川」なら、三本川のかわ、「河」なら、さんずいの かわ等と説明しますよね。

英語も同じで、聞き間違いの無い様に、aはappleのa、dならdogのd等と確認します。
事故当日に電話をした訳では無いのですが、色々焦っていたのでしょう。
わたしの旧姓には、「i」の字が入っていました。
そこを確認するため、電話に出た保険会社の男性が、「i は、Indiaの iだね。」と言ったのでした。

わたしはそこを、「あなたは、インド人だね。」と言われたと思い、
「いえいえ、わたしは日本人です。」と返しました。

「それは、わかる。だから i は Indiaの iだね?」
「いいえ、違います。わたしは日本人です。」

いっそ、インド人として生きるか。

これを数回繰り返しました。
最後に相手の男性が半ギレの様子で、
「もういい!保険番号言うから、控えて!」と言って番号を言いました。

何で怒ってんだよ、わたしは日本人だよ、と独り憤慨しましたが、(・・?
そうだ、スペルの確認をしていたんだ、と分かり、何とも申し訳なくなりました。

その後、その保険番号を持ってレントゲン写真を撮りに行ったり、保険会社へ行ったり。
事故のダメージを抱えながら、独り動きました。
友人には、
「場合によっては、被害者なのに責任追及された人が居るから、あなたラッキーだったかもよ。」と言われました。
これで過失責任を負わされたら、なんて、考えるだけでゾッとします。

そして数回程、クリニックに行き、治療と経過観察をされました。
その中で、破傷風の予防注射は打っているかと聞かれました。
最初、この破傷風、Tetanus が分からず途方に暮れました。
ここで初めて、日本人の為の相談窓口に電話しました。
分かったところで、実家に確認しなくてはいけません。
事実を話すつもりは無かったので、何とかはぐらかしながら、注射を受けていることを確認しました。

全身の打撲は日が過ぎるに連れ、黒から紫、紫から青、青から黄色と変わって行きました。
全身の体重を受けた肘の傷は、色素沈着と共に、今もまだ残っています。
ワーホリの証が、こんなところに。

クリニックの女医さんが、とても親切でした。
最初に飛び出して来てくれた、女性行員も、心配してくださっていました。
本当に、今もまだ、感謝の思いで一杯です。

保険会社に送る書類は、まあまあ面倒くさくて、記入するのに苦労しました。
そんな事で、アルバイト先に現れる、日本人商社マンの方々に教えていただきました。
働いていて、良かったね、です。

当時のワーホリで、トラブルに巻き込まれたり、事故に遭って大変な目に遭う日本人は、少なからず居ました。
日本人のレンタカーでの事故の多発で、一時期日本人が自動車を借りるのが、困難になった時期もあったようです。

自転車旅行やオートバイで、オーストラリア単独旅行に出るも、遭難しそうになって救助される人もいました。
無謀だと、新聞で批判されていました。
新聞に大きく載ったりしない様、本当に気を付けて生活していかないと、と改めて思いました。



冬へ向かう南半球オーストラリア

アンドレアがイギリスへ旅行中、秋から冬に向かう大雨の日がありました。
夜の間、激しい雨と雷が続きました。
物凄い音がして、何処かに雷が落ちたのだろうと思いながら眠りました。
翌朝、庭を見ると、木が裂けて倒れていました。
昨晩の雷は、この木に落ちたようです。
雷が落ちた木なんて、見たことがありませんでしたから、驚きました。
アンドレアが帰ってきたら、びっくりするだろうな。

実際、帰ってきて彼女は驚いていましたが、笑うしかない様でした。
イギリス旅行中の写真を、見せてもらいました。
春の水色の空に、薄い白い雲、自分の生まれた地域の空と同じでした。
半年以上、オーストラリアの真っ青な空を見ていたので、イギリスの空が懐かしく感じました。

オーストラリアは大陸です。
大陸気候と言うか、朝晩の寒暖差が大きいです。
日中グッと気温が上がっても、夜間は10℃以下になって冷えます。

夏は40℃を優に超えるパースも、5月以降は肌寒い日も多くなりました。
ただ、紫外線は強く感じました。
6月から7月は、さらに雨の日が多かった記憶があります。
そして、寒い。
雪国育ちのわたしには、大したことは無い気温です。
ただ、吹きっさらしの風は、身に凍みました。
洗濯物も乾かず、近くのコインランドリーへ行くことも。

天気が良いと、こんな感じで外に干します。
日本の物干し竿や、選択ロープとは違います。
中心のポールから伸びている、竿に洗濯物を干します。
この放射状に延びている竿が、風に吹かれてクルクル回って、良く乾きます。

そしてオーストラリア人、雨が降っても、慌てて洗濯物を取り込もうとしません。
何なら、そのまま晴れを待つ。
「もう一回洗えて良かったね~。」等と言っているお母さんも居たとか。
別の意味で、もう一回洗った方が良い様な。



残り3か月を迎えて

雨の6月が過ぎ、7月を迎えようとしていました。
ワーホリ生活も残り少なくなりました。
そろそろ次のステップに移る時です。
当初から、最後の3か月はオーストラリアを一周しようと考えていました。
しかし、グズグズしていて、実質旅行をする時間は2か月に減ってしまっていました。

せっかく慣れた仕事ですが、辞めなければいけません。
日本食レストランのオーナーに、辞めることを告げ準備に入りました。
アンドレアにも、一周旅行に出る事を話し、7月でフラットは退去する事となりました。

オーストラリアは広いので、一口に一周旅行と言っても、どこを回るかで、全く違ってきます。
全てをしっかりと見て回ろうと思ったら、数年掛かります。
ですから、大抵の人は駆け足旅行に成らざるを得ません。
最後にはもう一度パースに戻って来たかった事、ビザが9月の上旬に切れる事
この2点を考えると、相当頑張って回らないといけません。

パースからダーウィンまで、先ずどうやって移動するか。
西オーストラリア州は、地下資源が豊富で財政的には豊かです。
しかし、東側程、発展した大きな都市はありません。

以前、パースからエスペランスにバス移動した時、かなりの長旅(数百キロ)で疲れました。
これをダーウィンに向けてするつもりには、なりませんでした。
さて、どうするか。

オーストラリアは観光立国。
様々な旅行社が色々なツアーを売り出しています。
その中から選ぶことにしました。

次からは、いよいよ始まる、オーストラリア一周の旅について、書いて行きたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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