Australia(オーストラリア)、当時住みやすいと感じたこと

eyecatch わたしのAustralia
Swan川に沿ってお散歩

こんにちは、アラフィフ英語学習人のむっちです。

今回は、Australia(オーストラリア)の、住みやすさについて書きたいと思います。
たった1年の滞在でしたし、当時の英語力と年齢で、深い部分までは見えていなかったでしょう。
あくまでも、わたしなりに感じた事です。

渡航前、オーストラリアについての本は数冊読んでいました。
これから1年間お世話になるのだし、色々知っておかなくては、と考えたからでした。
健康的な、天真爛漫なイージーゴーイングな気質、青い空と青い海、豊かな自然、明るいイメージが先行する国です。
しかし、光があれば影もある。先住民族のアボリジニーや、高い失業率など。
それを踏まえたうえでも、オーストラリアは過ごしやすい場所でした。

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過ごしやすかったオーストラリア

先ず、日本と時差がほとんどない事。

現在はメールやラインがあるので、色々なをクリアしていますが、わたしにとっては、当時は重要ポイントでした。

実家に電話する時も、あまり時間を考えず連絡出来ました。
パースはマイナス1時間、シドニーだとプラス1時間、サマータイム導入時期だとプラス2時間でした。
パースはサマータイム制は導入していなかったので、通年通してマイナス1時間でOkでした。

次に良かったのは、自動車が、日本と同じ左側通行、右ハンドルな事です。

日本が左側通行だったのは、武士の時代、侍が左の腰に刀を差していたから等々あります。
そして、明治時代、新政府を支援したイギリスを手本にして、近代化が進んだからでした。
オーストラリアは、イギリス連邦の1つなので、交通システムも同じなのでしょう。

とにかく、これは生活する上で、大変良かったです。
道路を渡る時や、バスを待つ時等、違和感無く居られました。
逆の場合、ヒヤッとする場面もあると聞きます。

また、ホームステイ先の家族の数人が、日本の中古車に乗っていました。
バイザーの裏に日本語の説明があったりして、何かしらホッとしました。
ホンダとニッサンでしたよ。

ハンドルの位置に関係ありませんが、街では日本車を多く見かけました。
CMもたくさん流れていました。
トヨタのトラックのCMが面白かったのを覚えています。
紹介出来ないのが残念。

旅行先で出会った人も、日本車が好きで、バイクもホンダでした。
三菱一筋とおっしゃるおじさんもいて、嬉しそうに車の話をしていました。

上の写真は、わたしが住んでいた場所のすぐ近くにあった西オーストラリア大学です。
オーストラリア内ではトップクラスの大学の様です。
周辺をよく散歩させてもらいました。

オーストラリアでは、日本語教育が小学校からありました。
友人の1人が、オーペア(子供の世話や家事手伝いをする代わりに、住む場所を提供してもらう)をしていました。そのお宅には、小学校高学年の女の子と低学年の男の子がいました。
遊びに行った時、このお姉ちゃんが一生懸命日本語の練習をしていました。

小学校から日本語を習っているからなのでしょうか。
わたしが会った大学生の中に、驚く程日本語が流暢な学生が何人も居ました。

アルバイトで日本人相手に観光ガイドもしていました。
もちろん、高校生の時に、日本に交換留学生で行った事がある学生も居ました。

本当に皆さん上手で、無駄に自分の英語力と比較しては落ち込んでいましたよ。


この学生さん達の中には、現地法人の日本商社に就職した女性も居ました。
今頃、出世しているのかなあ。
きっと、貿易や観光収入で、日本は大きな市場の相手だった、のでしょう。

なぜ「だった」と表現したかと言うと、現在のオーストラリアの最大の貿易相手国は、中国だからでした。

今から5~6年前、オーストラリアから、1人で日本に旅行に来ていた女性と、お話する機会がありました。

お歳を60歳と話すその女性は、自転車で旅をする、パワフルな方でした。
彼女が言うには、最近は日本人より、中国人が多い。
以前は日本人がとても多かったけれど、との事でした。
現在は、中国語教育の方が盛んなのかな?

わたしがオーストラリアに渡った当時は、日本の経済バブルが弾けた後でした。
この国に進出して、我が物顔で不動産を買っていた様な。

しかし、かつての勢いは無かった様に思います。
それでも、まだ日本を意識出来る感じでした。
日系企業のTVCMも、多く流れていました。

きっと、現在は違うのでしょうね。
漫画やアニメはどうなのかな?
学校へ登校する前の時間帯には、日本のアニメが放送されていました。
当時でも、相当懐かしいと感じる、「ハクション大魔王」でした。
しかし、テーマソングは全く違うものでした。



食べ物の物価の安さ

オーストラリアは、農業大国です。
この農作物の豊富さと安さは、バイト暮らしの身には、大変ありがたい事でした。

玉葱やじゃがいもが、当時1キロで1A$するかしないか、だったと記憶しています。
りんごは、日本のフジや王林の様に大きくはありません。

今は余り見かけなくなった、紅玉の様に小ぶりな物がほとんどでした。
青リンゴの”グラニースミス”や、
”ピンクレディ”と言う、何とも日本人には懐かしい名前がついた
その名の通りの、ピンク色のリンゴが主でした。

このリンゴも、大袋に入っていくら、って感じで安かったです。
スーパーマーケットでも市場でも、量り売りで売ってくれるのが、良い感じでした。

他の野菜や果物も安く、肉もそこそこ安かったです。
詳しい値段は記憶の彼方へ~🎵
魚は高かったですね。
もっぱら、缶詰のオイルサーディンを食べていました。

パース郊外にフリーマントルと言う港町があるのですが、そこにマグロ船が入ると、マグロのおこぼれ頂戴、みたいな事が出来るとか出来ないとか?の話は耳にしました。
まあ、誰でも出来る事ではないでしょう。

 

単位は重要ポイント

生活する上で、この 単位 は、重要なポイントでした。
オーストラリアは日本と同じ、ℓ、㎞、kg、摂氏℃、の単位を使っています。
感覚が同じで良いのは、とても楽でした。

これがアメリカの様に、マイルや華氏℉で表されたら、わたしはお手上げです。
まあ、生活していく中で順応してくとは思いますが、ニュースや天気予報の理解に役立ちました。

旅行に出る時も、あとどれ位の距離なのか、明日の天気は?等が理解しやすいのは、本当にありがたいです。

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天候、気候がもたらしたもの

もう一つ、挙げておきたいのは、気候です。
わたしは、北国の湿気の多い地域で、生まれ育ちました。
偏頭痛持ちで、思春期になると、生理痛にも悩まされました。

パースは、どちらかと言うと乾燥した日が多かったと思います。
その為か、滞在した1年間は、偏頭痛と生理痛はありませんでした。

好きな事をしていた1年だったから、ストレスもなかったのかもしれません。
(多少の葛藤はありましたけれど。)

強い陽射しと乾燥で、その分肌は、かなりのダメージを受けて帰国しました。
そして皮肉なことに、弱い陽射しと、湿度の中で、肌は回復して行ったのでした。

この 気候 は、人間の気質に影響を与えるものだと、実感しました。
ずっと暑いと、イージーゴーイングに、寒いと様々な事象に備える。
全てがこの通りには当てはまりませんが、大変面白いと思いました。
風土がもたらす、気質の違いなんて物に興味を抱いたのでした。

確かに、冬の鉛色の空を眺めているのと、カラッと澄み渡る青空を眺めているのとでは、気分も違います。

この様に、生活に順応しやすい点が多く、わたしには心地良かったのでした。
本当に、何も出来ない一人の日本人を、1年間受け入れてくれた、オーストラリアには感謝で一杯です。
いつか、何かしらの恩返しができる日が来ることを思って。

今日は以上です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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