こんにちは、アラフィフ英語学習人のむっちです。
日本人&ドイツ人ご夫婦宅にお世話になって、1か月近くが過ぎ、そろそろ自立の道を考えていた真夏の12月。
ギリシャ人のおじさんから、親切にもフラットシェアの新聞広告をいただき、家路に着きました。
今回は、いよいよフラットへ引越し、少しだけの独り立ちを果たしたお話です。
シェア先が決定
その時、このご夫婦宅には、40代の日本人カップルが訪ねて来ていました。
女性の方は、大阪大学出身の才女でした。
加えて、イギリスやフランスにも留学経験のある、トリリンガルでした。
頭の中は、どうなっているんだ?と思いましたよ。
今では、芸能人にもマルチリンガルの方を良くお見受けしますけれどもね。
その時のわたしにとっては、天界からの語学の使者の様に見えました。(;^_^A
例の新聞を見せて、ここのフラットに引っ越すつもりな事を皆さんに話しました。
家賃は光熱費込みで、週60A$でした。
これは、相当良心的な金額だったと思います。
当時のレートは1A$=¥70~80だったと記憶しています。
一般にルームシェア募集広告には、部屋や家の状態、シェアする条件と共に、募集主の電話番号が載っています。
そこに連絡を入れ、後日部屋を見せてもらいに行き、お互い相性や条件等を確認します。
そして貸主が気に入った相手に連絡を入れ、シェアメイトとなります。
そこに居た大人の皆さんは、フラットのルームシェアなどした事が無い方々でしたから、この話を聞いて、軽く盛り上がっていました。
そして、皆さん一様にご心配くださり、わたしがこのフラットの持ち主に電話してみて、留守電だとなると、代わりにその留守電にメッセージを入れてくださいました。
本当にありがたいことです。
留守電に大事なメッセージを入れる度胸は、まだありませんでしたから。
その後、相手から連絡が入り、部屋を見に行く約束をしました。
その時、このドイツ人の旦那様が、一緒に部屋を見に行ってくださいました。
後で奥様から聞いた話ですが、どんな人と住むのか会っておきたかった、そうです。
このお宅から車で2,30分位の、市街地に近い場所にフラットがありました。
ドアベルを押すと、背の高い(180㎝超)女性が出迎えてくださいました。
名前をアンドレアと言って、わたしより、4歳上の方でした。
フラットの中を見せてもらい、3人で座ってしばらく話をしました。
わたしは自己紹介程度ですが、2人は色々雑談していたと記憶しています。
後日に連絡をいただく約束をして、帰りました。
お返事までしばらく時間が掛かるだろうな、と考えていましたが、確か翌日に連絡がありました。
「電話が来たわよ~。」と呼ばれて電話に出ると、
「I wanna share with you.」と言われました。良かった~。少しホッとしました。
↑このフレーズをなぜ英語にしたかと言うと、未だにこの時のこの声が耳に残っているからです。
このブログで、今までそしてこれから、英語ネイティブや他の国の人と話した内容を英語で表す時があります。
それは、何故だか分からないけれど、今も鮮明に記憶に残っているものです。
お引越しはクリスマス
さて、無事住み家が決まり、お世話になったお宅から出ることとなしました。
少し寂しくもありましたが、ズルズル甘えていては、進みません。
名残惜しく、お別れのご挨拶をしましたが、また旦那様に車で送っていただきました。
フラットに着き、お互い「元気でね。健康に気を付けて」と挨拶をして彼は帰って行きました。
実は引越し当日は、12月25日のクリスマスの日でした。
部屋に入り、荷物を開けていると、アンドレアに一緒に出掛けようと言われます。
見れば、彼女の妹さんも居て、にっこり微笑んでいます。
むむむ。断る理由は無いので、彼女の車に乗って出掛けました。
行先は彼女の実家でした。
アンドレアのお母さんにも紹介されましたが、日本人のシェアメイトが来るとは思ってもいなかったでしょうね。
たくさん家族でお喋りしていましたが、待ったなしのナチュラルスピードについていけず、固まっていました。
ここは南半球のAustralia、Perth。真夏のクリスマスは暑い日が続いていました。
日本の夏は、蒸し暑い所が多いですが、ここは大陸でとても乾燥しています。
日中の気温は40℃を超え、陽に当たると毛穴に針が刺さって来るような感覚です。
そんな中、街には普通にクリスマスの飾り付けがあって、これはこれで何か新鮮に映りました。
シェア生活の始まり
まあ、いつものクリスマスではない条件が整い(異国の地・南半球の12月)、デコレーションを見ても何ら浮かれた気分にもならず、淡々と過ごしていました。
アンドレアはクリスマスでもありますから、わたしをフラットに届けてくれると、再度お出かけに行きました。
その後の、クリスマス・年末は、フラットで独り、ボーッとしていましたよ。
たまに散歩に出掛けてみても、とにかく日中は暑い、暑くて日光が肌に痛い。
色々近所を探索しましたが、ひたすら独りで歩き回る自分に、笑えました。
暑いのは暑いのですが、周りの景色景観が素敵で、この後数か月住みましたが、飽きることは一切ありませんでした。
散歩に出ない時は、夢中になってペーパーバックを読みました。
わたしは、映画を観るのが好きで、1か月に100本近くビデオを観ていた時もありました。
その中で、「今を生きる」と言うロビン・ウイリアムズが主演の映画がありました。
街の書店でこの原作本、「Deat poets society」を見つけ、映画で観たことがあるから、理解しやすいかも、と思い、買いました。
少しずつ読み進めましたが、いきなりのペーパーバックだったので、単語や言い回しが分からず、まるで「蘭学事始め」の様に、持って行っていた英和辞書を引き引き、でした。
幸い辞書を引くのは苦では無かったので、面白がってずーっとやっていました。
こうやって、何とか1冊読み通して、ボキャブラリーが増えました。
大変だったけれど、楽しかったのです。
クリスマスは過ぎ、年末を迎えましたが、日本のせわしない感じはありませんでした。
大晦日は寝ていると、何処かで花火が上がっていましたが、眠気が勝りました。
そのまま静かに新年を迎えました。
テレビ番組も、日本のお笑い芸人のオンパレードなんてありません。
淡々と昨年1年を振り返る報道がされていました。
さて、アンドレアも戻り、通常のオーストラリアの生活に戻りました。
彼女はその身長(180㎝超)に劣ることなく器の大きい女性で、キッチンの棚にある物、食器は全て自由に使って良いと、言ってくれました。
(下の写真は、後に撮ったものです。残念なことに、少し傷んでしまっていました。)
自立した強い大人の女性で、わたしの事を気に掛けてくれつつ、適度に距離を置いて、と言う感じでした。
もちろん、わたしの会話力が乏しかったこともあります。
とにかく、ここで自分で買い足すものは、一切ありませんでした。
ご飯は、厚手のステンレス鍋がありましたから、それを使って炊きました。
この国は電気は200Wでしたから、であっという間に出来ました。
上の写真にある、黒くて丸い電気の熱源です。(IHとは違います。黒い渦巻き状の熱源)
また、同じく上の写真の、電気コンロ?の横に白い電気ポットがありますが、これで1分も掛からずに、1人分の紅茶のお湯が沸かせました。
こうやって、快適な生活が始まりました。
アンドレアからは、
「とにかく友達をたくさん作りなさい、日本人でも地元の人でも良いから。」
「本をたくさん読みなさい、ここにある本、雑誌はいつでも読んで良いよ。」
と言われました。
本棚にある本は、わたしには難しいものばかりでしたが、その中にあった、「The Outsiders」と「I heard the owl call my name」は薄目で何とか読み切りました。辞書片手ですが。
頻繁に「本読でる?」なんて聞かれるので、真面目に読みましたよ。
こんな感じで、初めての海外での、初めての全くの他人とのシェア生活は、始まりました。
時には楽しく、時には何か妙に気を使ってしまい、疲れることも正直ありました。
しかしながら、短い期間のこのシェア生活は、間違いなくわたしの財産になりました。
まだまだ、宝物はこれから増えて行きます。
この続きはまた後日。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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